中 國 や ぶ に ら み 建 築 紀 行   

〜 建 築 風 俗 の 旅 〜

西  安


               日本大学工学部建築学科
               建築史第二研究室
                     狩野 勝重



8/24 西 安  

                     ガイド 劉 磊夫
                         勤務先:西安國際旅行社日本部
                            029-5261451 (直通)
                         自宅:4244851-2527
                   ドライバー 関 建筑

 西安における収入は100 〜700 元/月。
 西安七不思議の一つに片流れ屋根があり、家が半分しか無いので不経済(?)という。
水勾配は内側向きにとられ、雨水は庭に落とす。
 レンガは隣近所から購入するか自前。小金が溜まると先ず家を造るという。家を造るこ
とが最大の関心事。

 西安の農作物の値上がりは著しいという。その理由の一つに、化学肥料の普及による生
産費の高騰が挙げられる。

        西安西部シルクロードのスタート地点から中心部に向かう緑のトンネル
       の道路沿いは、電工城と呼ばれる電工部品の製造工場が林立する。

        南二環路など環状線の東南部、西南部はハイテク団地として生まれ変わ
       ろうとしている。

 韓城市近郊の四合院形式住宅を訪れるには、片道4時間程度を要することが判り、翌日
早朝ホテル出発と決まり、この日は西安西方の乾陵チェンリン 南麓にある天井式窰洞集落を訪
れることにする。

 西安西方の乾陵チェンリン 南麓にある天井式窰洞集落を訪れるために、乾陵入口で車を止め
る。乾陵参拝路の観光客目当ての売り子の執っこさは、万里の長城以来のことであった。
その売り子の中の一人の家が天井式窰洞であるということで、10元を渡し見学させてもら
うことにする。

 この地方の地形は、平坦な大地とV字形の谷から構
成され、ガイド氏は乾陵周辺の土が一番良質であると
いうことは歴史の事実と強調していた。
 今年、この地方は酷い旱魃で、非常時に備えて飼っ
ている子牛を売って生計を立てるという。
         子牛1頭=1,000 元
         親牛1頭=3,000 元

天井式窰洞

 現在の当主は5代目で、10年前に天井修理しただけで、結構丈夫である。周辺の埃っぽ
さに比べて室内は落ち着いている。雨が降ったあと、相当の時間を経て水が天井に滲み出
してくるという話も聞くが、それだけ湿気が多いのかも知れない。小生のような者が見学
に多々訪れるのであろうか。非常にこ綺麗に整頓されている。

 この窰洞は兄と弟の2家族の住居である。元々は一
つの連続した空間であったが、院子の中間に壁を設け
て二つの区切られた空間としたものであるという。し
かし、聞き採りの最中、3丈4方が基本とも答えてい
る。この二つの矛盾した回答から推測すると、初めに
兄の住む東側の区画が造られ、後日西側になって区画
が増設、更に遅れて現在の姿になったと考えることが
できよう。
 天井式窰洞での生活様式の特徴的な部分は、一室一
機能を前提としながら家畜と人間の同居が何の不自然
さをも感ずることなく成立していることにある。その
善し悪しは別にして、環境共生という視点から生態系
循環システムを考える上では非常に興味深い題材とい
える。
 調査は歩測による略測である。野帳はできる限り調
査者のイメージを重視しているため、図と記入寸法の
間には矛盾する部分もある。

  天井式窰洞は大地を垂直に掘り窪め、院子の上端
 エッジ部分および窟前面壁の基底部は煉瓦を積んで
 成形している。採光は窟前面壁の出入口・窓・上部
 空気抜だけに限られる。

  窟前面壁の窓が煤で黒くなっている所は厨房であ
 る。その右側は納戸で、その右側の小さな出入口は
 家畜部屋である。
  また、家畜部屋の西側の出入口脇には農機具など
 の収蔵部屋が用意されている。

 小姐の部屋

  出入口脇西壁に沿ってオンドル形式のベッドであ
 るEが置かれ、続いてテーブル・古い家具・水たら
 い・収納箱が、東壁に沿ってミシン・箪笥が整然と
 並べられる。部屋の最奥は収納スペースとして確保
 されている。

  Eの片隅には夜具とテレビが置かれ、壁にはポス
 ターが貼られ、小物が懸けられていた。照明は裸電
 球である。

 父親の部屋

  父親の部屋は小姐の部屋の部屋に比べて、自転車
 や作業用小物などが置かれ、最奥は煉瓦で囲われた
 食物庫があるなど、幾分雑然としている。

  厨房内部。窓につけて西壁側に竈と水甕、奥に調
 理台と食器台およびテーブル、東壁沿い中央部分に
 石臼がセットされている。

  院子の厨房窟脇の壁際には井戸が掘られ、壁に釣
 瓶が取り付けられていた。井戸の深さは10m 程度で
 あるという。

  家畜部屋の一部にもEが設けられ、人間と家畜が
 同居している。Eにはかなり厚めの御座が敷かれ、
 窓にはビニールが貼られていた。

  院子への入口。

 宿泊予定のホテルが長安城堡大酒店であったので、すぐ脇の西安城南門近辺の町並みと
鼓楼クーロウ付近の町並みを訪れるが、いずれも再開発区域に指定されていて、既にその姿を
見ることはできなかった。特に、前回の8月4日に訪れた時注目していた長安城堡大酒店
隣接区域の小さな飲食店の密集した回族の商家群が、2週間足らずのうちに全て解体され
てしまっていたのには、少なからずがっかりしたことであった。
 美術・建築書などが豊富に並んでいるという古旧書店もその姿を消していた。

 このようなビルの解体作業に関して、現在の中国で
は機械に頼る情況には無いという。


8/25 合陽を経て韓城市近郊の司馬遷祠墓から四合院集落党家村へ。

 6:00ホテル出発。韓城市へ向かう。北京でも感じたことであるが、中国のドライバーは
非常に荒っぽいし、交通マナーは吾々の常識では信じられる範囲ではない。しかし、車も
人も決して譲ることをしない日常生活に範を求めるなら当然のことでもある。途中自動車
同士の交通事故を目撃する。そこでは、ドライバー同士の激しい口論が始まっていたが、
そう簡単には決着を見ないだろうという。周りは大渋滞。案の定、夕方遅くの帰り路でも
未だ同じ状態で言い合っていた。誰も注目しない。
 中国ではこうした交通事故は数多く起こるが、その殆どが示談で、警察を呼ぶことは先
ず無い。警察を呼べば、いづれの側も示談金を支払った上になお事故責任が問われ、良い
ことが全く無いためだと言う。

合陽近くの民居

 合陽近くで見つけた民居。この集落では殆ど同じ造
りで、外壁保護のために水切り瓦を埋め込んでいる。
山西省、陜西省の民居には珍しい造りといえよう。側
壁だけが煉瓦積みで、屋根の形は切妻と内側への片流
れ、反りのあるもの反りの無いものの療法が確認され
た。塀は干乾レンガである。

 合陽から芝川鎮の間には、沿崖式窰洞形式の煉瓦窯が数多く見られる。また、屋根の反
りが徐々に強くなり勾配も急になる。結果として屋根が高く感じられる。
 周辺は「荒涼たる大地」という言葉がぴったりくる。事実は、トウモロコシ・綿花・ジ
ャガイモ・林檎などの畑であるが、トウモロコシは殆ど全滅に近い状態である。


合陽から芝川鎮の間の最小限民居。

 6,000 ×4,000 [程度の民居で、出入口一つ、窓一
つの一棟一室の建物が一棟だけポツリと点在する。

 建物の一面ないし三面を崖とした民居も散在する。
崖に任せた分だけ手間が安くなるという。


建設中の沿崖式窰洞

 芝川鎮へ入る直前の下りの峠路入口で沿崖式窰洞の
建設が行われていた。出入口の下部は煉瓦積み、アー
チ部分はコンクリートが用いられている。


 下りの峠路を回ると、突如として緑豊かな谷間の村が出現する。芝川鎮である。芝川鎮
に入ると、再び渋滞。鎮の中央にある小さなT字路を中心に市が開かれており、人とリヤ
カーと車で1]弱の間が滞っている。漸く、人込みを掻き分けるようにして先へ歩を進め
て、韓城市の入口に到着。


芝川鎮の民居

 芝川鎮は非常に豊かなのであろう。周辺地域に較べ
て立派な造りが目に付く。外壁全体はグレーの煉瓦積
みで、搭状の2階を有する。搭状に載せられた2階部
分の使用形態は納戸・部屋など様々であるが、その脇
のテラスに接続され、階段はテラス入口のためだけと
いうこともある。

韓城市の入口の牌橋

 大きな都市の入口には多く境界となる橋が架けられ
ている。これを牌橋というが、これは韓城市の入口の
牌橋である。盧溝橋と同じ形式ではあるが、中央部の
起りが大きい。

韓城市の入口の牌楼

 大きな都市の入口には必ずといって良いほど牌楼が
設けられ、ここ韓城市にあっても例外ではない。
 この牌榜の背後には「韓城振興地理環境開発市場」
がある。

 ガイドもドライバーも韓城市近辺は初めて訪れたため、道に不案内で、どうも司馬遷祠
墓への分岐点を見落としたようである。「韓城振興地理環境開発市場」の人に司馬遷祠墓
への路を聞く。道はすぐに判明したが、なんと再び芝川鎮中心部の市の中を抜けなければ
ならない。鎮の中央のT字路には3方にリヤカーの店が開かれており、曲がるためにはそ
の店を移動させなければならず、結構な時間を取られてしまった。いやはや何とも。

司馬遷祠墓

 司馬遷祠墓は急峻な崖の上に設けられて、恰も小さ
な砦のように全体の擁壁ば煉瓦積みとされて、その威
容を誇っている。

 祠墓自体は急峻な崖上に設けられているため、諸施
設は崖の途中の僅かな平場に分散されている。写真の
左がガイドの劉氏で日本文学専攻で大学院終了後出身
大学で教鞭を執っていた。結婚したばかりで夫人は日
本人。3年後には是非日本に留学したいという。右が
ドライバーの関氏。非常にノーブルな感じを与え、運
転も紳士的である。その運転マナーを褒めたところ、
一度大きな事故を起こし、事故の恐ろしさを経験した
ためとの返事が帰ってきた。
 遙か彼方に黄河の流れが臨まれる。

 司馬遷祠墓の文物管理所は磚石式窰洞のスタイルを
採っており、出入口には月洞門が用いられている。

 ここから四合院集落が近くにある筈ということで、ちょうど司馬遷祠墓を訪れた地元の
人に確認。そこを訪れることが可能かどうかについて打合せをする。距離的にはさ程離れ
てはいないことが判ったが、もう一つガイド氏とドライバー氏が隠していた事実も判明。
韓城市近くでは時々武装した強盗が出没し、石炭運搬のトラックなどが消えてしまうとい
う。ドライバー氏の疲労も気になった。しかし、ドライバー氏が折角ここまで来たのだか
ら、「会社への距離延長分さえ確保してくれたら、時間的な問題は途中渋滞ということで
仕方がない」と言ってくれたので、意を決して先へ行くことにする。

 芝川鎮はメインの通りを避けて鎮の中の路を行くが、皆武装強盗のことを思い出し、人
影にびくびくしながら先を急ぐ。

 昼食時間を遠の昔に過ぎているのに気付き食料品店を探すも、土地に不案内のため見つ
けられず、漸く市街地のはずれで見つけた食料品店でパンを求めることにした。しかし、
その店にパンがあるにはあったが、1週間前のものだという。諦めて、空腹のまま四合院
集落を探す。


韓城市郊外の農家

 出入口の部分のみ塔状に造り、2階部分は納戸部屋
として使われている例で、吾々が探し求めた四合院集
落へは、この民居の脇の細い崖路を下る。この農村で
は、農機具の収蔵場所は、畑脇に残された小山の崖に
設けられた窰洞を使っている。

 崖上の集落を巻くようにして崖の縁に出ると、突如目に飛び込んできたのが探し求めた
党家村の集落である。空腹で少々苛々していたのが一遍に吹き飛んでしまった。上から眺
めた集落構成は、明らかにこれまで見てきた集落とは別物であった。中央に望楼があるこ
じんまりとした集落である。ドライバー氏とは望楼近くで落ち合うことにして、劉氏と小
生は車を捨てて細い崖路を下ることとした。

 村民委員会に案内を乞う。
 当村の最初の調査は「英国皇家建築学会」で、1992
年に「中日連合党家村民居調査団」が本格的調査を行
っている。


陜西シャンシー 省韓城市西庄鎮党家村

 党家村は周囲を崖に囲まれた隠れ里で、望楼を中心
とした希有なる美村。商業の村として発展し、その富
の象徴が四合院形式住宅として現在の姿を造り出す。
現在は人口千四百余名で三百余軒、その内旧建築物百
余軒。崖上に本村防衛のために若者が住んだ専守村−
塞子−がある。若い人達は皆都会に出てしまって、村
に残るのは老人ばかりであるという。

 屋根形式は切妻および片流で、一部にテラスを兼ね
た陸屋根が認められる。院子に木が植えられている家
は比較的少ない。

 各家は高い煉瓦塀に囲われて、村内に入ると通路は
非常に狭く、殆ど迷路に入り込んだかのように視界が
閉ざされる。しかし、路地は清掃が行き届いて非常に
美しい。

 各住戸への門。北京四合院の大門とは異なり、煉瓦
の塀に穿たれたアーチ状の門である。入口の庇は富の
象徴であり、その直下の額縁は屋号を入れたものと推
測される。
 パラペットのデザインも見るべきものがある。

 門庇を支える両袖の持送りは、迫持石の部分に様々
な彫り物が施されている。

 門庇の持送りもさることながら、上部の浮き彫り彫
刻は非常に精緻で、最も中国的装飾の一つといってよ
い。此処では蔀戸のような吊り上げの戸が付くのであ
ろう。門庇の丸捶に吊り竹が取り付けてあった。

 とある一軒の門を潜ると、正面には照壁がアイスト
ップの役目を果たして、中の様子を伺い知ることはで
きない。

 大門内側の屋根の取り合い。門の内側左手(写真右
側)部分には土地の神を祭る祠が設置されている。門
上部の障子、神祠の狭間格子は見事。

 基本的に建物は2階建で、北京の四合院とは異なっ
て細長い院子は磚敷とされる。また、各棟の院子に向
かった側面も北京の四合院のように開放的ではない。
院子に庭的な土の部分が殆ど見受けられないのは特徴
的な部分である。

 吾国の唐破風の原点とも思える姿に少々驚きの念を
覚える。桁上の蟇股なども非常に親近感を覚えるもの
である。

賢婦人之碑

 碑の正面には「旌表勅贈徴仕郎党偉烈之妻牛孺人節
孝碑」と記されている。清代の建造になり、本体は石
造で妻飾りは石の彫り出しであるが、平には木製斗拱
を貼り付けている。

党家村老年協会

 ここも院子は磚敷で、正面の正房は左右の廂房より
も一段高くなっているが、いずれも平屋で、この集落
では少数派に属する。正房の入口上には「民居魂寳」
の文字が踊る。

望楼

 望楼へ通ずる路は非常に狭い。敵の襲撃を受けたと
きは、この様な細い迷路に引き込んでから、情况に不
案内な敵の逃げ場を塞いで撃退するのだという。

 望楼近くの広場で遊ぶ子供たち。全身泥だらけであ
った。何処の村も同様の悩みを抱えるが、当村でも若
い人はみな都会へ出てしまって、残るは老人だけだと
いう。

 党家村を早めに失礼することにした吾々は、実際のところ相当にびびっていたのである
が、2年前にここを訪れた調査団は何も感じなかったのだろうか。その時の調査団の一員
であった青木先生は、再び10月に訪れると聞いた。党家村が感激的小村であることは確か
であるが、小生が再び当村を訪れるのは何時の日であろうか。
 再び韓城市街から芝川鎭を抜けて西安へと向かうコースを採る。芝川鎭は相変わらずご
った返していたが、その市場の外れでパンを焼いているのを見つけ、遅い昼食代わりにす
ることに成功。合陽辺りで日没を迎える。
 永い路程を経て漸く西安に辿り着いたのは夜の9時を回っていた。ホテルのレストラン
は既に終了してしまっていたため、ガイドの劉氏の知り合いの店に行く。3人で飲んだ一
口のビールが非常に感激的であった。別れたのは11時近くであった。
 ドライバーの関さん、本当に有り難う。お疲れさまでした。

8/26 蘭州へは夜行列車で移動することになり、時間的に余裕ができたことから、大慈恩
寺大雁塔ターイエンター と大薦福寺小雁塔シァオイエンター ならびに西安城壁北門を訪れる。

大慈恩寺大雁塔ターイエンター 

 652 年唐僧玄奘の創建。当初5層であったものを、
930 年又行が7層に改修。現状は一辺25m の方形、高
さ64m 。逓減率が大きく、各層間寸法も大きい。その
せいか小雁塔に較べて男性的な様相を呈する。
内部の二重螺旋を撮影し大喜びしたが、これは観光用
に改造した結果と知りがっかり。
 現在、西に大きく傾いており、いずれ修理の必要が
生じるものと思う。

 西門F線刻の『殿堂圖』はあまりにも有名。

大薦福寺小雁塔シァオイエンター

 707 年造立。初層部で一辺11.38mの方形磚塔で、高
さは約45m である。本来は15層であったが、上2層は
1555年の地震で崩落し現在は13層が残る。大雁塔が男
性的なのに対して非常に女性的な感じのする。その理
由は、軒の出が小さく、中腹なかふくら の逓減を示すこと
と、層間寸法が小さいことに由来する。軒の処理は磚
を斜めに用いた鋸歯型を用いている。また、3層迄は
木の階段を備え、4層以上では磚積みの上に木の手摺
りを具備する。

 大雁塔は小雁塔に較べて初層が大きいばかりでなく、各層ごとの逓減率が非常に大きい
上に、各層壁面の大きさも大である。この姿の違いは、吾国の法隆寺五重塔と室生寺十三
重塔の姿を思い浮かべてみれば納得ができよう。

西安城円形馬面

 明代の城壁。唐代の長安城は現在の約6倍程度の広
さを持ち、大雁塔・小雁塔ともにかつては城内であっ
た。現在の城壁は唐長安城の皇城部分の城壁跡に築き
直したもの。西門は唐順義門とほぼ同じ位置と考えら
れている。
 城壁上部は銃眼付胸壁(狭間)が巡る。

 ガイドの劉氏がよく知っている売店が北城門にあり、そこで北城門修理完成時に図面を
展示したことがあると言うので、そちらに廻ることにする。西安城円形馬面から北城門に
向かう途中で解体現場を見かけた。

 鉄筋コンクリート造の解体現場。このような解体作
業は、基本的に手作業であるという。一部に重機を導
入している現場も見受けられるが、全てが重機使用と
いう訳にはいかないようである。

北亀城箭楼の内部架構

 箭楼の内部における梁間方向、桁行方向の架構形態がよく判るので、梁間−側桁部分、
中央棟位置、隅部の持ち送り部分の様子を示しておく。

箭楼・桁と棟持ち柱を結ぶ梁・枋

 妻側一間の廂部分の架構形態を示す。桁行方向では
この部分のみ金柱と桁は梁ならびに枋で緊結される。
その上方には上金桁・上金枋、背金桁・背金枋が見え
る。尾捶は入母屋破風の立て所に位置する穿梁の下端
でバランスされる。

 隅木ならびに尾捶と穿梁・枋との取り合い。尾捶尻
は枋の下端に、隅木尻は穿梁と枋に挟まれるように組
み合わせられる。

 梁間方向は必ず梁と枋の組み合わせで、各桁と結ば
れる。桁行方向の架構は途中何も無いが、擔桁(正心
桁)・下金桁(母屋)・上金桁・背桁(棟木)といっ
たそれぞれの桁(母屋)がやはり枋の組み合わせで用
いられることによって水平剛性を確保しているものと
考えられる。

箭楼展示図面から
長安城覚書
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    |長安城 盛唐                            |
    |    天門街西  帛ハクを搗ウ つを聞く               |
    |    一夜愁殺す 湘南の客                    |
    |    長安城中  百万の家                    |
    |    知らず何人か夜笛を吹くを                  |
    |                −岑参シンジン「天門街西」−
|    |   李白・岑参が長安に棲った唐の最盛期(740 頃)には、街は百万の人
|    |  々が生活する街並が形勢されていた。
|    |「九衢十二街ククジュウニガイ」
 |    |    縦9(11)条横12条(14)、総計110 坊 坊壁で囲う。
 |    |   1坊2または4門で、坊内5000〜8000家を入れるに足る。
 |    |             地方の1城に匹敵。
 |    |大興城 隋 582
 |    |   丁男十万を発して、大興を城す。       −『隋書』本紀−
 |    |   宇文Cウブンガイ 、大興城・洛陽城の設計。その根本思想は、「天は
円、|    |  地は方」(『准南子宅経』)。円なる天に対して地上は方形で応え
る。|    |   長安城の基礎となる。
  |     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−− 
 箭楼近くの工事現場。柱の細さに驚かされる。煉瓦
はそのままカーテンウォールとして用いられている。

 16:10 西安発の夜行火車(列車)に乗るために駅に向かうが、途中時間をみて書店に立
ち寄る。建築関係の本がそれまで余り手に入らなかったので、思い切って10冊程度を購入
するが、やはり重過ぎた。手持ちの紙袋では危険なので、駅前の地下商店街で布製の手提
げ袋を購入。しかし、本を詰めてしばらくしたらファスナーが壊れてしまった。仕方がな
いので、全体を紐で縛り、蘭州にて旅行用のトランクを購入する心づもりをする。