1998 

 中国雲南省昆明・大理・麗江地区研修資料 

狩野勝重 

1.60MB



 昆明市街地の建造物ならびに民居 



  円通寺門前の下駄履き商店街で、左右対称に建てられた近代建築。先端部の円形平 
 面処理と格子を用いた曲面窓、階の切り替え部分にダブルで用いられたゴルビーステ
 ップ的モールデザインは表現派的処理である。





 円通寺 

  寺全体は水のある傾斜地に布置さ 
 れ、「池塘院落」という放生池を回 
 廊で囲った大型水院形式によって建 
 てられる。中国建築の中では華美な 
 部類に属する宝殿は正面柱間七間、 
 1320年に重建(再建)され、さらに 
 明・清時代に修理をしている。
  八角亭は明代の建築であろう。

円通宝寺

  比例関係で柱間を示すと、桁行4:6:8:10:8:6:4の七間、梁間4:8:8:4:4の五間と
 なる。殿内の柱の省略は見られないが、中央の4本柱には明快な内転びが確
 認される。また、吹放しの雨打柱、覆土部分のエン柱ともに中央に向かって
 内転びが確認される。ただし、雨打柱の中脇間の2本だけは垂直である点は
 注意を要する。

  木鼻は渦絵様の組み合わせで、絵様は尾垂木にまで及ぶ。吹き放し裳階の
 すべての斗キョウが扇形3方向に肘木を持ち出す点は特徴的である。ただし、
 身舎部分は垂直方向のみである。この斗キョウの形式がいつの時代のものか
 は俄には断定できないが、元代の技法と推定している。


 庸道街花鳥市場 

  福照街近くの庸道街花鳥市場の12軒連続住宅。1階の店舗部分は覆土白壁と 
 し、2階部分は木造碧色塗装仕上げとしている。この連続重地区の間の通路上
 が仮説路上店舗で、大変にごった返している。街路に面する部分は本来建物の
 裏側で、大門は狭い路地に開く。



 盤龍区重点保護単位・福林堂 

  文廟街角に建つ福林堂建物は晩清の建築で、代々中芍・丸散を製造販売する老舗で 
 ある。平面は扇形で、丸柱使用、3階建て、軒にチョウ花飾板がもちいられる。



 文廟街の街並み 

  文廟街の街並みの古いものは木造丸柱2〜3階建てで、朱塗りの晩清時代の建 
 築が連続する。隣家との境は防火壁を共有し、卯建が揚げられる。火災で焼け、
 骨組みだけ残った民居があったが、防火壁の有効性を如実に示していた。内部の
 構成は、2階以上は1尺5寸程度の持出式架構で、外観2階建て、内部3層となっ
 ている。
 



  文廟直街の街並み。この一角は外壁すべてを煉瓦で覆っている。恐らく、中華民 
 国時代の建築であろう。中には4層の建物も見られる。



 曙光巷の3階建て民居 

  現在約10世帯が居住。耳が遠い老婆が一人洗濯をしていたが、本来の持ち主で 
 あるという。院子の広さとしては北京の小規模な四合院の院子とほぼ同じ程度であ
 るが、取りまく房が3階建てとあってはさすがに重苦しい。明・清時代としては相当
 に高密度化された住居と言ってよい。
  なお、重点保護単位の福林堂の建物も元はこの老婆の持ち物であったという。





 文廟直街の民居 

  文廟直街の裏路地を入った所、昆明百貨大楼有限公司幼稚園の脇にあった白壁に朱 
 塗りの小式大門を持った築100年程度の民居。話を聞かせていただいたご婦人は55年
 程前に南京から疎開してきたが、「ここはとても住みやすい」という。
 子供8人は既に結婚しているとのこと。居住者は2所帯で7〜8人。正房ならびに両脇耳
 房および大門脇の房がご婦人の家族1所帯で、家賃は5元/月。大門向かいの1房に
 は別の家族が居住し、なんと1元/月であると言う。
  民居の形式は3合院で、障壁部分に差っ掛けを掛けて台所にしている。ガス台が向か
 い合わせに2台あったが、その訳が判明した。 




 大観楼 

     昆明郊外のTian池北岸。創建は1690年。その後兵火に会い、1886年修建。 

 金殿 

     1602年(明代)に太和宮建造。金殿は1671年に再鋳造された金銅製銅殿。
   その他に二天門と太和宮城楼が残る。

 龍泉観大門 

     1394年創建。その後清代になって修理。





 昆明坂道のシークエンス 



  街路を石畳としたこの坂は昆明で最も美しい景観の一つに挙げられる。坂の降り家の 
 外壁は照壁化しており、そこには吾国の銭湯に見られるような壁絵が描かれている。
  この古い街並みがいつまでその命脈を保ち得るのであろうか。




  古い街並みを構成する個々の家々は、このように長い年月を経て相当に痛みが進ん 
 でいるが、何故かほっとさせられる。このような雰囲気を保全するにはどのような方
 法が適当なのか考えさせられる。




 三合院と四合院 

  何れの場合も直行する縦軸横軸を有し、主屋を縦軸線上に、従屋を横軸線上に置く。 
 Π型構成またはH型構成のものを三合院、四つの単座建築による長方形または正方形 
 構成のものを四合院と呼ぶ。
  中国建築は、「間」単位の単座建築の組み合わせによる群体形式で、庭院は単元組
 成をとる。



 ヨーロッパ建築デザインの影響 

  昆明におけるヨーロッパの影響は主としてフランス 
 によって齎されたものである。そのメインルートはベ
 トナムのハイフォンと昆明を結ぶ鉄道の敷設であった
 という。
  しかし、フランスの技術者達が直接昆明の地に降り
 立って活動に当たったわけではなく、その影響は主に
 帰国した留学生達の手によるものであったという。彼
 ら留学生が持ち帰ったヨーロピアンスタイルは正に土
 着の技術として伝統的スタイルの上に定着していった
 ものであろう。その真骨頂が民居の顔とも言うべき大
 門の周辺に集約されている。
  写真の門枕石のデザインも確実にヨーロピアンデザ
 インの影響を受けている。




  昆明の町は現在新旧が入り交じって、大街に面した部分と裏面では様相を異にする。 
 防火壁に取りついたヤオ洞のように見える房の本来の姿はどのようなものであったのだ 
 ろうか。
  また、防護幕として用いられている竹の網代はいつ近代的材料に取って代わられるの
 であろうか。近年材料が不足してきているという。




  1.台梁式木架構   春秋時代初期に完備
  2.穿斗式木架構   用材が少なくて済み施工が簡易なため漢代より使用。中国南 
             方諸省に多く、台梁式木架構と併用することが多い。
  3.井幹式木架構   商朝後期より陵墓内部に多く使用。その後、漢朝初期に宮苑 
             内の楼として用いられた。森林築以外ではあまり用いられな
             い。

  木架構建築の障壁がセンに変えられるのは漢朝以降のことであり、瑠璃瓦が用いられ 
 るようになったのは北魏宮殿以降のことである。





 大理周辺の建造物および民居 


 白族の民居は何れも白壁と白壁上部の藍色文様および棟の構成が美しい。 



 太和古城 

  太和城は、アル海地区を統一し南詔国を建てた皮ラ閣が唐王朝より雲南王に任じ 
 られた739年より、再び羊ソミ城に遷都する779年まで首都として用いられた。
 その後937年に建国された大理国も羊ソミ城を首都とした。




 三塔寺 

  高さ70メートルの主塔 
 の建設は南詔国後期(八 
 世紀)、高さ40メートルの
 左右小塔は大理国(十世
 紀)のときのことである
 と伝えられる。
  正式名称は崇経寺三塔
 という。地震の被害を被
 り三塔とも傾いているが、
 特に左側の小塔の傾きが
 激しい。




 喜州・土司の邸宅 厳家院 

  厳家院は一顆印形式と四合院形式が融合した五天井式住居である。邸内に入ると 
 先ず東側に照壁をもつ三房一照壁の一顆印形式、さらに南側奥へ進とそこは四合院
 形式。さらにその奥にはフランス人であった夫人の洋館がある。



 喜州Xizhouの商家 

  東房を商場とし、南側に大門、大門 
 脇に大きな照壁を有する三房一照壁、
 各房2階建ての一顆印住宅。現在は照
 壁前に平屋建て一房を増築している。




 喜州の街並み 

  喜州はなかなか美しい集落で 
 ある。中心部の商店街ならびに 
 それに繋がる自由市場はそれぞ 
 れに纏まりを見せている。そうし
 た活気も一歩裏に入ると非常に
 閑静な佇まいを見せる。
  しかし、この町もご多分に漏れ
 ず観光一本やりの姿に変わるの
 も時間の問題であろう。1997年
 に訪れた時には大きな観光用の
 連絡通路が造られていた。




周城の駅広場にある舞台


周城の藍染め工場



 EryuanからDiannanにかけての建物の様子は 
 太安Taian近くの建物と構造的には類似してい
 るものと想像されるが、上部の壁面の表情は
 大いに異なるものがある。建物の多くは東向
 きに建てられる。
  中央部分の棟は大きく、左右の棟は小さい。
 この地方は豊かな穀倉地帯で、牛街Niujieの
 町並みは大変に美しい。また、この町の郊外、
 剣川Jianchuanを経由して麗江Lijiangへ向か
 う道路沿いには煉瓦を焼く竈が林立する。




 

 剣川Jianchuanの民居 

  雲南省博物館に展示される剣川民居の模 
 型。剣川は横断山脈の裾野に位置する白族
 の村。典型的な三房一照壁の一顆印住宅。
  壁面の構成、装飾門楼、中央照壁上部あ
 るいは妻壁上部の装飾、水切り瓦および照
 壁上部の棟の曲線、左右の房の軒飾り板な
 どは典型的な白族の住居形式を示している。
  また、門楼はその家の格を著すもので、そ
 の左右の側壁と上部の軒のデザインに注目
 されたい。



 

 九河Jiuhe付近の建物 

  EryuanからDiannan付近の建築と比 
 較すると、左右の耳房に相当する部
 分がみられず、土壁の上に載る部分
 の造りが異なる。土壁の保護を目的
 としたものであろうか、切り替え部
 分に霧除けを有する。
  また、本屋根の支柱にも相違があ
 ることが見てとれる。





 麗江周辺の建造物ならびに民居 




麗江郊外の民居

  空港から麗江にいく 
 途中で立ち寄った民居。
 大門は北西に設けられ、
 主房は西向きに建てら
 れている。院子の東方
 に内畑を有する。
 

  南側の房の中では村人の共同作業による木工事が行われていた。特に大工 
 がいて工事をするわけではなく、木材も地産のものが少なくないという。瓦
 は工場より買い入れ。工作には押し鉋が使われていた。
  主房南端の竈は煙草乾燥用。




 麗江で最も有名なレストラン DINDIN 




 図景12-2 人民街旧 481 旧余宅
    朱良文主編『麗江納西民居』
      雲南科学出版社1988 参照


 人民街旧 489
    朱良文主編『麗江納西民居』
      雲南科学出版社1988 参照

  1996年2月3日の大地震で出入口周 
 辺が被害を被り、この部分を改造した
 ために平面は当初とやや異なる。
  出入口は四方街に面している。

 麗江・人民街旧 87 号
         並びの民居 


  基本的には四合院形式であるが、 
 麗江の地形的制限から、必ずしも
 大門の位置が南面するとは限らな
 い。各房は2階が出し梁形式とさ
 れている。



 紅 
 楼
 餐
 館
 前
 の
 牌
 楼





 白沙村 







 瑠璃殿・大積寳殿 

  明代の建築物で中央より 
 呼び寄せた大工の仕事と伝
 えられる。










 太安Taian付近の建物 







 上海の住宅ならびに建造物 



准昌路の共同住宅


  ガイド孫氏の叔母の家で列強侵 
 略時代の連続住宅の一部を使用し
 ている。恐らく元は一部屋であっ
 たものを南北で分割し、さらにそ
 の中が細分化されている。最奥の
 部屋は中二階が設けられ、上部を
 子供のベッドルームとしている。
  部屋の隅は裏側の家と行き来で
 きるような通り庭とされている。




 上海博物館 



 上海・玉
 仏寺より
 見た高層
 住宅

  以外に古い 
 寺と近代建築
 が良く調和し
 ている。