狩野 勝重 中国建築行脚  

1994年訪問、1995再訪問
日本の旅行社を通じてホテルを予約する方が安くて良い。
ガイド、通訳は中国の旅行社(例−中国国際旅行總社)と直接連絡取る方が良い。
中国国内と連絡を取るときは必ず返事を確認すること。
    担当者・担当者連絡先・予約番号・予約先担当者・予約場所・予約時間。
    航空機の時間・搭乗機などは突然の変更あり。
宿泊施設などでは予約番号を提示したほうがよい。
滞在目的を明確に担当者に伝えて確認の返事を受け取ること。
    目的が正確に伝えられるまで繰り返し説明が必要。


1994

北 京 BEIJIN回 顧 録


                   ガイド 王 旭升 Wang Xusheng
                       中国国際旅行社總社接待二部
                China International Travel Service Head 0ffice
                Second Depertment of Tour Operation 
                        中国・北京復興門内大街103 號
                       CITS Building 
                       103 Fuxingmennei Ave. 
                       Beijing 100800, China 
                        郵編:100800
                       電話:0086/1/6011122-8321 
                       電真:0086/1/6031190
                     国際電話:0086/1/6011122-8321 
                     国際電真:0086/1/6031190

7/29(金) 西域地区を廻るため、特別チャーター機を利用したツアーに同乗。成田
     空港昼頃のフライト。エコノミークラスの搭乗券ではあったが、団体客を
     搭乗させる都合から、出国ロビー通過時にまずビジネスクラスへの変更が
     求められ、ついで搭乗口で再度ファーストクラスへの変更が求められた。
     結局、ファーストクラスで北京へ。

 北京時間午後8時15分(1時間遅れ)、北京空港着。入管は何事もなくノーチェックで
通過。持ち込み品についても届けも何も必要なし。入国票とパスポート、ビザのチェック
のみ。本来のツアーは大阪からの一行で、到着時間が異なるため、入国ロビーへは代理の
通訳が迎えに来てくれた。ほっと一段落。迎えのタクシー(中国側の旅行者の手配)へ。
と思ったら一悶着。なにやら空港駐車場の管理者からクレームがついて、周辺は黒山(オ
ーバーかな)の人だかり。30分近くすったもんだの末、漸くスタート。到着時はまだまだ
明るかったのに、周りはすでに陽が落ち始めてきた。後で判った話ではあるが、北京空港
の客待ちのタクシーはひどいときは4時間以上も並んでようやく客を掴むことができるよ
うな情况であるため、駐車場で客を乗せることが禁止されており、その違反行為と間違わ
れたのだという。まあ、そんなこともあるかと納得。食事を済ませてホテル到着は北京時
間で午後9時半を回る。中国建築学会の胡恵琴さん(建設省建築大学校へ留学中の外事公
司・李逸定氏夫人)がロビーで到着を待ちわびていた。先ず初対面の挨拶を済ませてフロ
ントヘ。ところがフロントではブッキングされていないという。1時間以上もすったもん
だ。胡恵琴さんをあまり待たせる訳にもいかないので、先に打合せを済ませ、後日の訪問
を約す。ツーリストの北京事務所に連絡すれども中々埒が明かず。ツアー一行が到着する
まで待つ覚悟を決め開き直るが、その後、フロントでチェックインの済んでいない鍵袋を
確認したところ、ツアー一行と別の予約番号でブッキングされていたことが判り、一件落
着。


7/30故宮見学〜7/31烏魯木斉〜8/1 吐魯蕃〜8/3 敦煌〜8/4 西安〜8/6 北京〜8/7 成田

 この期間の研修内容については、別途報告をすることとして、今回の報告からは削除。

8/12(金) 13:15 北京空港着。
     上海上空を経由して北京南方より空港進入。
       ・直線的に数]は続くと思われるような用水路と碁盤目の新村開発
       ・北京郊外の新農村開発は(建替えによるものが多い)赤レンガによる平
        屋の農家と二階建て程度赤レンガの新村が整然と配列される。
       ・集落および田畑のブロックはその区画を樹木(多くはポプラ)によって
        整然と区画。
       ・蛇行した河川の屈曲部分に水田(この時期には水が張られているだけ)
        が配置される。
       ・野菜の栽培はビニールハウスのなかで行われることが多くなっているが
        中国特有なハウス栽培形態(特に西方の乾燥地帯で目に着くが)も存在
        することに注意したい。

     着陸5分前の機内よりの新村2態スケッチ。

8/13(土) 北京概要
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       |明の永楽遷都時の城外に溢れていた民居を囲おうとするも資金が尽き|
       |て南側部分を東西横長に囲い外城とする。            |
       |旧北京城城壁を取壊した跡に環状道路を整備。          |
       |環状道路整備にあたっては必ず街路樹を植ることが義務付られる。 |
       |明の永楽遷都時建設の内城城壁跡に地下鉄を巡らせる。      |
       |一周40分程度で巡り清時代の城門名を駅名とする。        |
       |北京の車は80万台でそのうち1/5 がマイカー。           |
       |現在北京市人口の60%が通勤者。                |
       |                               |
       |胡同 大街で囲まれた坊を更に東西に走る小路によって細長く分割。|
       |   その小路に沿って南北に長い短冊型の敷地をもつ。     |
       |   胡同とはその小路の呼称で、その始まりは、金人による支配を|
       |   円滑にするために金人と漢民族とを交互に住まわせた当時の地|
       |   割で、胡とは金人の別称で侮蔑的な言葉。         |
       |   北京四合院はこの南北に細長い敷地に建てられた住宅形式で発|
       |   祥は西安(長安)か?                  |
       |建設事情                           |
       |   1830年の第二次アヘン戦争以降天安門広場の東側に各国大使館|
       |   1949年の開放後建国門(旧城東門)に外人居留区設定、海外資|
       |   本による現代建築・超高層ビルなどが林立。        |
       |   現在、第2環状線と第3環状線の間に大規模な住宅開発が進行|
       |   中。                          |
       |建築物の建設年代早見法                    |
       |   グレーの煉瓦造              明・清の時代 |
       |   石貼仕上                 1950〜    |
       |   コンクリート仕上・ユニバーサルスタイル  1980〜    |
       |   超高層・数の建築             1990〜    |
       |   新しいプランによる住宅建築進行中     1994〜    |
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                        元      1271〜1368
                        永楽年間(明)1403〜1424
                        清      1403〜1911

北京の四合院

   四合院の基本は南北中心軸を基本として院子(中庭)を中心に、南面に門および倒
  座房、北面中央に正房、東西に廂房を配する(例 干面胡同の一般民居)。一般的な
  民居はこれで一応完結するが、更に大型の四合院は、院子に向かって廻廊を巡らせ、
  垂華門という内門を有する他、後単房をも用意する(例 郭沫若故居・歴史研究所宿
  舎)。また、高級四合院をみると住居部と園林部とを有するが、これは高級官吏の邸
  宅もしくは貴族の邸宅と考えてよい。

四合院図

 
pekin3-3北京中型四合院図   pekin3-4北京大型四合院図

 
   pekin3-2四合院図   pekin3-1四合寺観図
    【参考文献】  梁思成『清式営造則例』中国建築工業出版社 1993.5 P19
    【参考文献】  『北京四合院』北京美術撮影出版社 1993.6 P3-4 

8/13(土)

郭沫若故居


   大門(西南隅西向き)から垂華門前の庭には小山(墳墓という)が築かれ、少し定
  型を崩すが、垂華門は南北軸線上に置かれ、その垂華門から東西廂房・正房へは廻廊
  によって導かれる。さらに正房の後方に庭を隔てて後単房を用意する。この後単房と
  正房は廻廊的性格をもった窓付の廊下によって接続され、後庭を囲んで東西に長くな
  るが四合院の原則的配置形式に準拠する。柱間は基本的に等間隔と考えられる。
   なお、院子から基壇への石段の殿式が庶民の形式と受け止められる小式(大規模四
  合院としての建築形式からいえば大式であるべきであるが)とされているのは、後庭
  が「褻の空間」として機能すべきものであるという理由に依るものであろうか。
   正房の後庭の寸法は東西約27,600mm南北9,360mm で十字形の軸線を有し、四合院の
  基本形式である東西南北十字軸の院子の集合体と捉えることができる。
 
pekin004郭沫若故居1    pekin005郭沫若故居2

煤渣胡同の高層集合住宅

 北京市中心地区で既に再開発された部分は、胡同で
囲まれた一ブロックの内側を更地として、高層集合住
宅に換えている。
 殆どの住戸のベランダ部分はガラスを嵌め込み、外
部と隔絶している。
 一軒の床面積は20〜30mm。入居後すぐに個人的に改
修されるのが普通。改修工事に当たっての仕様・見積
の業務に関する職能は現在のところ明確に確立されて
はいない。
pekin006
高層集合住宅スケッチ
   
          pek1024s写真               pekin007写真

干面胡同の四合院(一般民居)


 現在の使用状況は、倒座房・東廂房・西廂房に各1
家族、正房に2家族で計5家族が居住。但し、正房の
西の端は空いており、更に1家族が入居予定で、その
家族は現在入居準備中。一人っ子政策のため1家族は
3人である。
 本来院子として機能すべき中庭は各房が前面に一室
づつ増築しているため、殆ど本来の形態を留めておら
ず、その機能を全うしていない。少なくとも、院子が
院子としての機能を発揮し得る状況を確保する必要が
あろう。
 現在1人当りの居住専有面積は3u程度であるとい
う。
宣武門シュアンウーメン東大街北面の民家見学・写真撮影。

pekin008干面胡同の四合院

干面胡同の四合院(一般民居)


歴史研究所宿舎(宣武門大街−未英胡同)
 歴史研究所の宿舎として使用されている四合院で、
相当程度大型の部類に属し、外院と裏院とを有する。
 大門を入ると正面に照壁があり、鍵の手に折れて外
院へと導かれる。後房については未確認。
 歴史研究所の宿舎ということで、裏院部分は比較的
良好な院子の形式を保っており、住戸として使用され
ている左右の廂房や套間の前は日除けのための棚が設
けられている。しかし、もし院子そのものの広さが充
分確保されていなければ、却って通風を妨げる結果と
なったであろうことが予想される。
 なお、胡同から裏院の入口である垂花門までの外院
は数世帯の住戸に改造されており、細い路地と化して
いる。また、坊舎は古く、殆ど近代的設備は整ってい
ない。炊事は各住戸の入口脇(外部)で行われる。

      この四合院は翌年取り壊されていた。

pekin9-1

pekin009歴史研究所宿舎

北京における門の形式

  屋宇式大門情聡繹ハのものから王府大門・廣亮大門・金柱大門・蛮子門・如意門。
         役人あるいは社会的地位ある中上層階級の住宅に用いられる。
     王府大門 梁間2間の中央に扉を有し、前後の柱間は吹放し。
     廣亮大門 軒先にも柱を有し、棟の位置に扉を設ける大型の門で、間口1間。
     金柱大門 廣亮大門と類似の形式であるが、扉の位置が棟より前に出る。
     蛮子門  廣亮大門あるいは金柱大門と類似の形式であるが、軒先の柱間に扉
          の位置がくる。
     如意門  軒先に扉を構え、扉の両脇に砌り壁を備える。1間のものを大型、
          半間より大きく1間未満のものを中型、半間のものを小型と位置付
          ける。北京ではこの形式が数多く見られる。
  牆垣式門 情択Dの字形の石組門扉を基本とし、下層階級あるいは百姓の民居に用い
         られるが、最も多い。西洋の城壁のような形の門もある。この形式の
         門は什刹海沿岸に多い。

屋宇式大門中型如意門


 北京における民居の大半は胡同に向かって門戸を開
き、大街に向かっては門戸を閉ざす。グレーのレンガ
積袖壁の間に嵌め込まれた出入口上部の彫り物に特徴
がある。








                         
          pekin010屋宇式大門中型如意門


8/14

紫禁城東壁と東河沿街

 紫禁城東華門から東北角楼までの筒子河(内濠)内
沿すなわち東河沿街の民居は、本来紫禁城内での生活
必需品を扱う商家である。これらの民居は、「皇帝は
城門を出るとすぐに庶民と肌を接することができるよ
うに配慮する」という思想に基づいて配置されたもの
である。東華門よりの南半分は棟方向を南北の内濠と
平行に、北半分の角楼までは棟方向を東西の内濠と直
角に配している。当然、これらの民居は四合院は構成
せず、一棟形式である。
 東河沿街は南北の中央部で道幅を1/2 に減少させて
いる。
 しかし、現状ではいづれのタイプの民居も一部屋程
度の増設を行っており、内濠と棟を平行にする民居で
は、道路側に棟と平行に一軒分を、直角な民居では各
々の民居の間に物置と思ぼしき建物を増設し、塀を巡
らすことで構成された院子に相当する部分は恰も細い
路地のような体をを示している。
 なお、便所は共同のものが数軒おきに設置されてい
るが、却ってニーハオトイレよりも汚い。また、東華
門近くは下水道完備ではあるものの臭いはきつい。
 また、民居の片隅には取り外したレンガや瓦、ある
いは新しいコンクリート瓦などが積んである。補修や
再利用のための予備材料である。北京では自家製は余
り無いが、周辺部では自家製が少なくない。







pekin011紫禁城東壁と東河沿街


pek11-2

東河沿街北東端の紫禁城角楼下の建物

          食材加工公司(故宮東門外43)

 軒の厚さ、飛角地円の扇捶と軒反りのいづれを採っ
ても、中国の民居と吾国の民家の差がにじつによく顕
れている。


pek12-2

pekin012紫禁城角楼下の建物

紫禁城東河沿街の筒子河(内濠)
沿い東岸の民居

 筒子河東沿街の民居の棟方向が判る。南半分は城壁
に対して平行、北半分は直角になる。

pekin013紫禁城東河沿街の
筒子河(内濠)沿い東岸の民居


菊児胡同の新住宅

  現在、北京においては最も進んだ形の住宅で、u当たり単価は7,000 〜8,000 元とい
 われている。北京での月収は200 〜1,000 元、西安での月収は100 〜700 元であると言
 うから、u当たりで考えれば凡そ年収に相当し、すでにバブル最盛期の吾国の住宅事情
 とほぼ同じ様相を呈している。因みに、西安では平均貯蓄2,000 元達成記念式典が行わ
 れていた。

菊児胡同の新四合院

 北京の実験的住宅の一つで、四合院の基本である院
子を構成の基本とする。

pekin014菊児胡同の新四合院

菊児胡同の保護的単位の四合院

 本四合院の出入口は屋宇式大門中型如意門に相当す
る。庶民の住居はグレーまたは白色を用いる。黄色は
皇帝の色、赤は土地を支配する色で宮廷関連。

pekin015菊児胡同の保護的単位の
四合院

包鼓石

 四合院入口の重要な門飾りの一つで馬の
轡を繋ぐ石である。

pekin016包鼓石

門枕石


pekin017門枕石

菊児胡同の屋宇式大門大型如意門

 門上部の狭間、門簪、門枕石で一セットの門飾りと
なる。

pekin018屋宇式大門大型如意門

菊児胡同の大型四合院

 この四合院では現在おおよそ百家族程度が生活して
おり、院子は増設された民居で埋め尽くされ、殆ど路
地化している。『中国古建築園林観賞』(閻長城、曉
鵬著 知出版社 1986)に「大的住宅先是縦深増加院
落、再高級的是横向発展、増加行的幾組縦軸、称為跨
院」と記される超大型の四合院に相当するものであろ
う。こうした四合院は如何に大型といえども外周は全
て墻壁で囲まれており、殆ど外へは門を開かない。胡
同への開口部は僅かに中型如意門と上部に穿たれた小
窓のみである。しかし、店舗については例外的に胡同
に間口を開く。現在も、房は清代の建物がそのまま用
いられており、その屋根の棟部分にはは日本の建物の
ような棟瓦は使われていない。
交道口の胡同大型四合院

 四合院の基本は、胡同間を南北短冊型の敷地に四庁
(最小単位の一棟を庁)によって囲まれた裏院と、そ
の前庭を構成する外院、さらに正房の後ろに位置する
後単房を以て完結するが、大型の四合院では、その単
位がさらに後方および横方向に拡がることがある。

pekin019菊児胡同の大型四合院

pek019-2内部の情況

四合院雑感

 現在、保護単位に指定された四合院以外に、本来の院子を保っているものは数少ない。
その中で、歴史研究所宿舎の院子は、北京における現状での使用例としては最もよく整備
されたものと理解されるが、そのことは、取りも直さず、院子の本来的機能に物理的な機
能より社会的機能(坊がそれぞれに城壁に匹敵するような坊門と界壁をもち、夕刻の鐘と
ともに坊門を閉ざし、内部の活動は自由であるが外部とは隔絶。このことが四合院の外周
部に開口を設けない理由になっている)が優先されているのではないかと云う疑問を抱か
せる。これは、西安や韓城周辺の四合院あるいは一顆院の院子が強い日差しを遮る狭い風
抜きという物理的機能を併せ持つのとは大いに異なる。

   『中国古建築園林観賞』によれば、「農家にあっては一般に1院子3房すなわち一
  顆院の住居であり、貴族あるいは官吏の大型四合院は幾つも院子を持つが、その増殖
  の仕方は、南北に長い短冊型の四合院が横に連結していく形をとる」としている。
   小型の四合院は南北に長い短冊型の敷地を更に南北に分割して造られている。

  グレーのレンガ積袖壁と開口部・壁面上部コウ
  (丸桁)の様子。
  基本的には土壁被覆の仏堂建築と同一構造。
           
              pek20-1       pekin020開口部・壁面上部コウ

宗慶齢故居

  ラストエンペラー溥儀の父親の邸宅で、1963〜1981年に孫文の未亡人である宗慶齢が
 使用していた。広大な園池を接続させる。残念ながら生活感に乏しい。いづれの四合院
 についても感じることではあるが、大型で保護単位の四合院は、古い中国の生活を知ら
 ない吾々にとっては生活感を感ずることはでき難い。
  恭王府・梅蘭芳故居(護園寺)・四川飯店も典型的四合院というが今回は視察せず

宗慶齢故居近くの民居・墻垣式門
          (西洋建築式)

 
pekin021墻垣式門      pekin022墻垣式門

后海の公園施設(船着場?)


pek22-2后海公園施設

羊房胡同

羊房胡同民居倒座房の軒処理

pekin023軒処理

后海南沿の街路

 アカシアの並木が日陰を提供する街路樹として非常
に美しい。余り高木にならず、適度な繁りを見せてい
るが、北京の風土と大いに関係がありそうである。

pekin024后海南沿の街路

后海南岸の公衆便所

  墻垣式の妻壁を持つ

pekin025公衆便所

妻飾断面のスケッチ

 伝統的景観維持の観点からすると、単なる形態模倣
ではなく、伝統的素材に準拠した正確なディティール
の再現が必要になる。

pekin026妻飾断面

旧レンガ(灰色)と新レンガ(赤)

  明・清代の建築は主に灰色レンガが使用されているが、表面は水や風害に弱いのに反
 し長期使用に耐えられる。しかし、生成に時間がかかるという。繋ぎ材は接着力が弱い
 のかレンガ表面がそのままで剥離する。
  生成時間を短縮することができる上に固い。しかし、本体が割れ易いという。

 悠久の時間があらゆる変化を呑み込んで、森羅万象、現象するものは全て時間と伴にあ
る。什殺后海の沿岸を歩いていると、ふと、そのような雰囲気に引き込まれる。ここは、
太公望の天国であり、第二環状道路の内側にありながら質の高い住宅地としての資質を備
える別天地である。
 文物保J単位の四合院が后海北沿の衛生部の近くにあり、保幼園として使用されている
が、開放されていないため見学・撮影ができなかった。四合院として適切な規模。

8/16

八達嶺万里長城










pek27-1八達嶺

pekin027万里長城

八達嶺万里長城断面図

  『中国古建築史話』より

北京周辺部の農村集落

 近年に建設された住居あるいは現在建設中の住居は
いずれも、マンホールも含めて基本的に赤レンガを使
用しているが、一部に鉄筋コンクリートの使用も認め
られる。建物は高い棟の母屋と低い棟の納屋が向かい
合って建つ。中国河北地方の一般的様式である。

 開口部として計画されたものが、建設途中で塞がれ
ているのをよく見かけるが、いま一つ理由が不明であ
る。

pekin029農村民居

8/17

北京市内の民居

  一部道路より院子が低いところがあるが、配水については不明。


盧溝橋旧敷石

                      3-3-1 
  敷石全体は修理がなされ、今は貼り替えがなされているが、
 中央部には昔の敷石をそのまま残している。








pek29-1敷石

盧溝橋欄干の獅子

  欄干に並ぶ獅子達のうち子獅子を連れているのが母親で、子獅子の
 多い獅子程慈悲深い母獅子であるという。雄雌の違いが子獅子、子獅
 子の数が慈悲の深さ。中国的発想の何と直截的なことか。








pek29-2獅子

盧溝橋ルーガオチオ

  1192完成 1987修復 「世界で最も美しい橋」(『東方見聞録』)
  盧溝橋は一部橋桁が変更を受けているというが詳細は不明。南面と
 北面で橋桁の形態が異なっている。永定河は30年ほど前から水が枯れ
 ており、現在は自動車教習場として使われている。1937年7月7日
 の盧溝橋事件によって日華事変の火蓋は切って落とされた。






pekin030盧溝橋

盧溝橋の城門

 馬面をもつ典型的城門で、この門
が日華事変においての最大の激戦区
になった。
 
   pekin031     盧溝橋の城門    pek31-2

盧溝橋の集落の佇まい

  この集落では犬に驚かされた。中国では
 現在市街地で犬を飼うことが禁止されてい
 るが(実は禁止ではないが税金が異常に高
 い)、農村部では相当数の犬が飼われてお
 り、野犬が多いところも少なくないという。



pek31-3盧溝橋民居

頤和園近くの用水路に架かる
 太鼓橋のイメージスケッチ

 用水路の両岸はポプラの
並木がつくられ、水の蒸発
を防ぐ。また、農村集落の
周囲あるいは農業区などの
区画もポプラ並木によって
形成される。



pekin032太鼓橋のイメージスケッチ

頤和園イーホーユアン

             清朝夏の離宮跡 仁寿殿は政庁、楽寿堂は住居。
  乾隆帝の時代に初めて開かれた頤和園は、1860年のアロー号事件を契機に勃発
 した第二次アヘン戦争で破壊されたが、西太后が膨大な海軍の経費を流用して再
 建。昆明湖は人造湖でその土で築いたのが万寿山。
     長廊(世界一長い廊)の手摺には日陰に涼を求める人々が屯する。
     下の厨房から上部の離宮(食堂)まで人から人に手渡しで運ぶ間に丁度
    食べごろの温度となるという。
     立派なドックを備えているが、これは頤和園整備にあたって巨額の海軍
    経費の流用をカモフラージュするためと言われるが、西太后は頤和園来園
    時は運河をよく利用したという。
  
pekin033頤和園佛香閣               pekin034長廊





頤和園南湖島十七連孔アーチ橋

 盧溝橋を模したと伝えられるが、似ても
似つかない。





pekin035南湖島十七連孔アーチ橋

頤和園廣潤靈雨祠(龍王廟)の宮殿式垂華門

 南湖島は杭州西湖周辺の姿形を模したという。廣潤
靈雨祠(龍王廟)は宮殿式垂華門を持つ。院子は儀式
空間であって庭園ではない。





pekin036廣潤靈雨祠(龍王廟)

頤和園長廊

 ギネスブックにも載る世界一の長廊。上部左右の小
壁には仏教説話を絵物語的に描かれる。
 廻廊は領域と領域を互いに区別するための装置とし
て機能する。ここでは、水辺と建築を中心とした施設
とを分離している。即ち、建築と庭園は一体化せず、
長廊および四阿は湖を眺めるための装置であり、互い
の領域を際立たせる役割を果たしている。
 中国では、日陰さえあればいたる所で涼を求めて人
々が屯している。日中は午後5時頃までぶらぶらして
いる。長廊とて例外ではない。長廊内は行き交う人々
と屯する人々でごった返す。

pekin034長廊

マンホールの蓋


pek34-2マンホールの蓋

頤和園ドック

 大材を用いた大スパン架構が醸しだす雄大な雰囲気
の木造ドックである。西太后は船を使って運河からこ
のドックに至り下船。





pekin037頤和園ドック

紫禁城交泰殿

 皇帝と后が結婚後初めて生活を伴にする建物が坤寧
宮で、交泰殿では宴会・皇帝の葬式・后の誕生日の祝
いなどが行われる。

紫禁城内

 紫禁城は全体として四合寺観に基づく建物配置であるが、院廊内には樹木を一切植えて
いない。儀式専用の空間である。

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景山公園


紫禁城北側の筒子河(内濠)と景山

 陰陽道に基づいて造られた人工の山で、景山は紫禁
城の真北にあたる。

pekin039筒子河(内濠)と景山

北京雑感

  道路事情  3車線車道の1.5 車線分は自転車で占領されている。
        北京郊外の交通渋滞は相当に激しい。
  緑比率   北京の緑比率は現在20%強という。道路には必ず街路樹を植えることが
        義務付けられているが、現在は土地不足などから再検討が迫られている
        とも聞く。しかし、北京のみならず、中国全体として緑が更に重要であ
        ることは論を待たない。
  工場立地  春、5月頃西から東への強風が吹く(黄砂)ため、排煙が市街地に流入
        しないように、工場立地は市街地の東に配される。
  建築物評価 明代の建築物は規模雄大なるも評価されず。扱いとしては日本近代建築
        における1940年代から1950年代にかけての建築物評価と似ている。ただ
        し、役所関係の建築物は古い形態の保護に配慮が払われている。
  農村住宅  北京周辺では、農村部であっても少し大きな街区を形成する集落では4
        〜5階建の集合住宅が建設されて、その形式は北京市街とほぼ同じであ
        る。20〜30_/人程度。
  古建築   中国の古建築は明代にその殆どが修理されており、当初の形態をそのま
        ま伝えることは少ない
        文化大革命で多くの寺院が廃寺となった
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