大 同 タートン  8/18 23:21 北京発夜行火車(列車)にて大同へ

        一週間通訳を努めてくれた王旭升さんと、最後の夜を三越(日本の三越
       デパートの経営という)で彼の好きな寿司を食べて過ごす。上寿司(日本
       では並以下)が800 元程度で、日本の値段と変わらないのには少々驚き。
       その後、パブのような店で軽く飲んだ後、北京駅まで送ってもらう。いよ
       いよ一人旅という実感が沸いてくる。

        乗り込んだ夜行列車の便所は汚かった。漸く、ガイドブックの記述が実
       感される。

車窓より見た大同近郊の農家−スケッチ1

 広大な荒れ地(?)の中に突如として現れた農家は
母屋が切妻、向かい合う建物は中庭に向けての片流れ
で、いずれもレンガ積み土塗り。お互い2棟の間は土
塗りの壁で閉ざされる。

車窓より見た大同近郊の農家−スケッチ2

 周りが陥没した(堀り窪めた)地形の中に建つ農家
で、崖と土壁との区別が一体化している。凹地は水が
流れている訳ではなく、畑や道路として用いられてい
る。
 建物は母屋1棟のみのことが多く、庭は土壁で囲わ
れる。
 また道に沿って植えられたポプラは、風が強いため
垂直には育たず、枝の出方も2段3段に分かれている
姿が特徴的で、思わずあるお座敷犬の尻尾を思い出し
ていた。                06:00 頃

        窪地は自然の陥没地形よりも煉瓦の原料の採掘跡と思われるものの方が
       多い。

                      ガイド 武 澤平 磨@0352-528180 
                    ドライバー 方  銘 磨@521601-8308 

        8/19 06:46 大同着 宿泊予定の大同賓館にて朝食 中国入国以来初め
       て、臭いがきつくて食べられないものが出た。羊の肉であろうか。
        大同賓館はドライバー方銘氏の父親が現場監督(副所長)をした建物。

 大同は、基本的に工業の町で、市内から雲崗にかけての5]位の間に17ヶ所の炭鉱があ
り、27,500cal 以上の良質の石炭を産出している。その石炭は、天津を経由して日本へも
輸出されている。現在、中国でのエネルギー源は石炭に頼る部分が大きく、炭鉱に勤務す
る人々の収入は、一般の人々の収入の3〜5倍にもおよぶという。しかし、炭鉱集落は臨
時のもので、その使命が終われば町ごと遺棄される。そうした情况は、かっての吾国でも
同様であったが、此処では一層強烈で、化石エネルギーを中心とした工業化という世界の
凄まじさを嫌という程見せつけられた気がする。それは、恰も人間の営みを一挙に廃墟へ
と導いているような錯覚すら抱かせる。
 大同市の南部には大規模な火力発電所があり、そこからの送電によって北京市の大方の
電力エネルギーが賄われている。

 本来城壁都市である大同市は、城市の南側に南関、北側に真武廟を配置するが、火車駅
(鉄道駅)はその真武廟の更に北側に造られている。現在、工業都市としての位置付けを
標榜する大同市にあっては、城壁や古い民居は邪魔でこそあれ良い評価はされていない。
外周へ延びる高規格道路建設のため城門はすでに取り壊されてしまっている。北京市では
今になって城門を破壊したことを悔やんでいるようであるが・・・・・。

 まだ人の動きのさほど多くない早朝(06:46 )大同駅に到着。大同駅から市のほぼ中央
大西街にあるこの日宿泊予定の大同賓館へと向かう。タクシーはドライバー方銘氏の個人
所有の車(汽車)であるという。車はフォード製の小型車。山西省のツアー用タクシーは
その殆どが個人。
 大同には日本語が話せるガイドがおらず、15年前までは役所の通訳、6年前までガイド
をしていたが、現在は歴史研究員をしているという武澤平氏が案内をしてくれた。

        北京でもよく見掛けたが、車の屋根のアンテナに巻かれている赤い布は
       吉祥祈願のためだという。

大同の住宅

 市内に四合院住宅は殆ど残存しない。ここでも再開
発が盛んに行われ、郊外に夥しい数の中高層住宅団地
が造られているが、形式は北京の集合住宅の5〜6年
前のタイプ。煤渣胡同の集合住宅と同一形式と思われ
る。

        市街地における住宅の専有面積(室)は6〜7_/人で、ガイドの自宅
       は約100 _、ドライバーは約37_であるという。古いタイプの低層住宅で
       は、15〜20_に5〜6人が住んでいたとのこと。
        低層分譲住宅(2階建)の場合は3,000 元/_程度(1994年現在)。


大同市外周部の開発地区

 大同市外周部の開発地区は、中国各地の拠点都市と
同様、近代的ビルの建設ラッシュである。カーテンウ
ォールにも干乾煉瓦?が用いられている。


大同市内の工事現場
 鉄筋を手で曲げていた。


新建西路西地区の新開発団地

 団地全体が砂埃の中。建設途中ではあるが、設計上
では窓として計画され、サッシとガラスを嵌める筈で
あったと思われるものを、建設中にレンガを詰めて塞
いでしまったという箇所が幾つか見受けられた。特に
1階部分に多い。


雲崗石窟ユンカンシークー  460 〜494 年。北魏。西域から招かれた沙門統曇曜の指揮。石窟内
          の着色は明代のもの。

 雲崗石窟は、なだらかな丘陵の前面半分を削り、そ
こに石窟寺院を完成させている。この石窟を造るにあ
たって、当時の技術者は、先ず石窟上部の明かり採り
用の窓から掘り始め、徐々に下方へと掘り進んだとい
う。そのようすれば足場が不必要。その時の採土は河
の対岸に積み上げられ、現在は小山状の丘陵地となっ
ている。

雲崗石窟壁面のモチーフ

 雲崗石窟の壁面には北魏時代の様々なモチーフが描
かれているが、これもその一つ。4体の座像には屋根
が架けられ、その右手には角塔のようなものが建てら
れている。この他、平三ツ斗や人束などのモチーフが
用いられている所もある。

 現在、二つの窟廂において、寺院名より建築物を推
定し、かっての前殿後窟のスタイルを前提として想像
復元による整備を行っている。
 整備・補修に当たっての最大の問題は表層の風化で
あり、10年位前からユネスコの指導でポリマーを含浸
させている。また、後背部に残された丘陵地の土中は
水捌けが悪く、内部の痛みも殊の外激しい。

 窟の補修に当たっては、鉱滓を心材として使用して
いる。非常に軽くてすみ、強度が期待できる材料であ
る。

 石窟の上には明代の堡塁が築かれている。堡塁の上
は歩行が可能であるが、堡塁に囲まれた平地の草むら
は人糞に注意。石窟側から登ると入場料を採られる。


炭鉱で働く人々の住居

 雲崗石窟の対岸には、石窟造成時の採土が積まれた
丘陵があるが、その斜面には炭鉱で働く人々の仮設住
居が建てられている。石炭の採掘が終わると、そのま
ま放棄されるという。


上華厳寺大雄宝殿  金代の末、1140年再建。正面7間、側間5間、面積1559_。

         架構上の特徴は、殿内の柱配置に「減柱法」を採用することで大空間
        を創り出していることである。金代の仏殿としては最も優れた大規模の
        覆土建築の一つ。現在国の重点保J単位として解体修理予定。
         内部の柱上には斗Lが組まれず、側桁上の斗Lは梁・桁方向とも軸上
        にのみ展開する。軒の反り・内転・柱の延びなどは今後の調査に待たな
        ければならない。
         壁画に関しては、粘土で仕上げた下地に元の絵柄が発見されたが、色
        彩については不明である。


下華厳寺薄伽教藏殿 遼代の1038年建立。正面3間。

 既に解体修理が終了しているが、報告書については
不明。柱には内転がみられ、柱上部には粽もみられる
が、日本のような宗派による様式の違いではない。時
代による様式の差は存在するという。
 内部の周壁に沿って「天宮壁藏」と呼ばれる非常に
精緻な組物の宮殿が用意される。
 また、内部は最前部の天井を格天井で、それぞれの
仏像上部をドーム状に膨らませる。このようなドーム
状の天井は、明代のインド様式を模した建物に散見さ
れるが、詳しくは今後の調査報告に待ちたい。

  1445年の建築といわれる善華寺については、今回修理中ということで見ることができ
 なかった。


8/20 朔 州 市 シュオチョウシー〜崇福寺ソェイフースー 〜五台山ウータイシャン へ。

   一部予定を変更して朔州市シュオチョウシーの崇福寺ソェイフースー 経由で五台山へ向かう。ドラ
  イバーとガイドの話し合いの結果、日本円で3万。少々高い気がして躊躇するが、車
  がドライバー個人のもので遠方まで走ると整備にお金が掛かるし、当日の道程が10時
  間近くになるからという説明であった。どうにも足元を見られているような嫌な感じ
  を受けた。しかし、修理工事が終わり報告書も出たばかりということで、又とない機
  会でもあることから、思い切って崇福寺を訪れることにした。結局、この追加料金に
  ついては、領収書すらも貰えなかった。修理工事報告書は、日本に帰ってから翌1995
  年秋に購入。


懐仁ホワイレから朔州市への幹線道路沿いの窪地に作られた畑。

 四角い段になった窪地は煉瓦材料とする土の採取跡
であることが少なくない。また、盗難防止のために畑
の多くは、その作業域を土塀で囲っている。山西省の
大地はその大半が岩山で、表土は砂・泥のため樹木は
育ち難く、殆どが草地である。全体的に平坦ではある
が、突如として切り立った崖の表情を呈することもあ
り、その崖と人工的な土塁が共存する。
 沿道はポプラ並木。

   幹線道路沿いには殆ど民居らしいものも認められないのに、突然の人だかり。そこ
  は即席の路上市場。リヤカーの上に山と積まれたトマトが売られていた。その後、中
  国各地で見掛けるようになる光景ではあるが、最初は本当に驚いたことであった。民
  居が確認されなかったのは、それが生土建築であったためなのか、はたまた天井式窰
  洞が多いためなのかは不明であるが、何れにしろ雨が殆ど降らない世界なので、木々
  の緑も白茶けて、セピアに近い色の世界である。
   ビニールハウス内での栽培はトマト。


朔州市近郊の民居

 朔州市近郊にはボールト状の民居が散在する。そこ
で天日乾燥させた土板を縦横に積み上げた土塀の築造
方法をスケッチ。


朔州市街の窰洞

 朔州市にはほんの一部ではあるが靠山式窰洞も見ら
れた。その後背部分は既に丘陵部が削り採られ、一軒
分の巾しか残されていない。
 近日その姿を消すことであろう。
 また、市街中心部の道路にはリヤカーや車の荷台が
そのまま露店となり、路上市場となっている。そのた
め車の通行はままならず、喧騒の坩堝と化しており、
そこにはまさに人の営み(但し、整然とした秩序に慣
れた我々には、少々おどろおどろしいものがあると感
ずるのも確かなことではあるが)がある。

   そんな道程を経て辿り着いた崇福寺は、山門を潜ると同時に、異次元の世界に我々
  を引き込んでくれる。といっても、それは敬虔で厳かな世界とは大きく異なり、門前
  の雑踏に対して、直ぐ裏手は無限の大地を従え、崇福寺自体がその境界に位置すると
  いったような不思議な感覚である。山門の内側は手入れは行き届いているものの、吾
  国の様に「隅々にまで」という雰囲気とは大いに異なる。


崇福寺ソェイフースー 彌陀殿ミトゥオティエン  1143年建立。1993年修理工事完成。

 中国で建築史上最も優れた遺構は遼・金代のものと
言われる(武氏談)が、崇福寺彌陀殿はその代表的な
遺構で、架構の大胆さには目を見張るものがある。隅
の柱には内転がみられ、貫の使用法・尾捶の形態とい
った部分は、吾国の東大寺大仏殿の鎌倉再建を彷彿と
させる。

 柱間寸法をみると中央間(明間)三間は6,200 [、
次間は5,600 [、梢間は5,760 [である。吾国の古建
築では脇に行くほど柱間寸法が減少するが、梢(庇)
間で僅かに拡がるのは覆土であることを意識してのこ
とであろうか。

隅の斗L

 桁行と梁間に平行な2方向に斗Lの組手が入るばか
りでなく、隅木と同一方向、ならびに通し肘木に燧を
加えたような形で隅木に直角の方向にも組手が入る。
この架構法は、小屋組の水平剛性を高めるためには理
に適った手法である。

平の斗L

 柱上の平の斗Lも、隅の斗Lと組手方向は同一であ
る。なお、三手先目の丸桁を受ける枠肘木は直角に持
ち出した尾捶にのみ用意される。

 柱と柱の中間に置かれた中備は桁に垂直な一軸上に
のみ展開する。三手先目の丸桁を受ける部分では枠肘
木は用いられず、二手目にのみ枠肘木が用いられる。
 なお、それぞれの尾捶の間に隙間は無い。

 修理工事の設計担当者は柴澤俊氏で、『清式造営規則』を著した梁思成氏(全国古代建
築協会会長)の弟子である。


崇福寺観音殿

 観音殿の規模は桁行五間梁間三間で彌陀殿に較べる
と遙かに小さい。それだけに軒の反り上がりもきつく
雄大さには欠けるが、なかなか堂々とした建築物であ
る。軒の聖獣達は彌陀殿よりも多い。

 隅の斗Lにおける二手目の尾捶周辺の納めは特徴的
であり、丸桁を受ける枠肘木はご5斗分が一木造りで
ある。また、中備も彌陀殿とは異なり三ツ斗揃えとさ
れる。清代に建てられた平遙の清虚舘と類似。

   朔州市から一度山陰シャンイン まで戻り、応県インシエン を経て渾源フンユワン へと向かう。

   山陰から応県付近の民居は反りを有する片流れの2棟が中庭を挟んで向かい合う形
  式をとる。西安周辺の民居にも同様の形式が多数見られる。
   山陰シャンイン から応県インシエン への経路をとると、周囲は一面ヒマワリとトウモロコシ
  の畑で、羊の放牧もところどころ散見される。沿線の民居の多くは道路より一段低い
  地盤に設営されているせいか、殆ど集落の存在は認められないが、長い田舎道を走っ
  ていると、突然人が現れてびっくりさせられる。

応 県 インシエン 

   7月末から8月初めにかけて烏魯木斉ウルムチ・吐魯番トルファン ・敦煌トゥンホワンを回った時
  のスケッチを見て、ガイド氏は直ぐに少数民族の民居を見て回ってきたことが理解で
  きたようである。屋根の形、建物の配置に関する限り、大同周辺の民居とさ程異なる
  様には思えないのであるが、やはり漢民族から見れば異なるのであろう。


木塔寺ムータースー  1056年建立。中国最古の木造塔。八角五重塔。仏宮寺釈迦塔。

 正式名称は応県佛宮寺釈迦塔。山門と大殿を結ぶ軸
線上に配置された南北朝時代の典型的釈迦塔である。
全高61.3m、5層6擔、1階裳階付で、初重のみ土壁
で覆う。
 八角円塔各重の東西南北に欄干への出入口が設けら
れて、全ての柱間には格子窓が嵌められている。

 各層の擔位置と欄干との間には暗層が設けられてい
る。これは1層と2層の間の暗層。さらに各層とも擔
柱と内柱の間に廻廊部分を有し、1層部分は内柱も覆
土とされる。

 各重とも擔柱には内転が認められ、丸柱内側に支え
となる角柱を貼り付ける。内側の柱はころびを持たな
い。初重においては中央部から外周部に覆壁を貫通し
た通し肘木で擔柱を受け、上層においてもこれに準じ
た架構方式を採る。このことは上層の逓減率と密接な
関係を予想させる。

 斗Lの組手は、桁行・梁間方向に軸を合わせた桁・
母屋に沿って素直に展開している。斗L2段目の通肘
木は結果として燧梁の役をなすことになる。

浄土寺大雄宝殿   1184年再建。梁間3間、桁行3間、単層の建物である。

 浄土寺大雄宝殿の正面は木の顕し、側面は覆土とさ
れ、軒の反りは強い。組物は出三ツ斗で、斗Lの部材
の角は白・瑠璃・茶で隈採りがされている。また、尾
捶の形態は水平の通し肘木の先端にコンコルドが首を
垂れたような形で取り付けられている。確かなことは
判らないが、どうも清代に大幅な手が加えられている
のではないかと疑われる。

 内部の天井は中央と左右に3分割され、中央が一回
り大きいが、そこには柱は設けられていない。南北方
向の上部梁のみにて空間分離。天井を支持する梁上部
の宮殿クウデンの庇的精緻な組物が見事。

 丁度修理工事を終えたばかりのところで、墨出しを
した部材が横たわっていた。吾国では、この様に大量
に皴割れを起こした部材は恐らく使用しないことであ
ろう。

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