3/23 太 原 タイユアン 
                                 山西大酒店泊
                               ガイド M志勤氏

 中国の文物の70%は山西省にあるという。しかし、道路総面積も非常に少なく、山西省
はあまり都市を開放していない。山西省の地勢は東西が山、南北に開ける。1997年頃には
30億元をかけて高速道路が開通予定。
 山西省内で火力発電所は13ケ所、石灰の産出は全国の1/3 。
 山西省の農地区画は柳の植樹による。太原周辺の農村はさ程豊かではなさそう。冬季の
野菜栽培はレンガ積みの壁で囲った中で行う。

 太原の歴史は古く、漠高窟千佛堂モーカオクチェンフォートン の第61窟西壁の『五臺山圖』左下隅に
太原府圖として城府が描かれている。1940年頃までは独立的であったが、開放後、太原城
壁を撤去。現在の太原は中国有数の商都で、非常に近代的な都市である。総人口は1994年
現在280 万人、市街地で250 万人であるという。住宅建設は一軒で1万元、一般に5軒程
度を目安としているが、年間3000〜4000元程度であるという。
 この地区での窰洞の耐用年限は30年を超えるという。


玄中寺シュアンチョンスー    浄土宗の祖庭

 交城チィアオチョン の地の渓谷沿いにあるこの寺は、清の
乾隆帝時代に建てられた典型的清朝様式の建築物とい
える。山門と大雄宝殿が現存する。


 大雄宝殿は桁行5間梁間4間で前後1間は庇(五間
二面)。桁行の柱間は11.5:15.5:15.5:15.5:11.5
の比率をもち柱総間17,723[、梁間は6:10.5:10.5
:6で柱総間8,415 [。各柱間は桁行と梁間ではそれ
ぞれに異なっている。
 外部軒廻りの組物は非常に装飾的要素が強いが、内
部には一切組物は用いられず、天井はK顕しである。


 山門は正面規模外面抑えで12,000[、桁行3間柱総
間11,600[で各柱間の比は19:20:19となり、中間寸
法4,000 [脇間6,080 [である。
 一方、梁間柱総間は6,426 [で各々の柱間は1,577 
[、1,836 [、1,836 [、1,577 である。
 中間の平面中央部分に建てられた径約360 [の2本
の角柱を中心に構成されている。
 屋根架構は典型的清朝様式といってよい。軒は二軒
で隅扇。この地区には珍しく隅軒が反り返る。

文水県ウェンシゥェイシエンの農家のスケッチ

 太原から平遥への途中、文水県で見掛けた農家は恰
も城塞であるかのような姿。外周は磚煉瓦積みで窓は
なく、内側は連続住宅で各戸に煙突がある。屋根の縁
は銃眼のようになってる。

        太原周辺の農家に較べて非常に豊か。


山西省平 遥 ピンヤオ   1370建造。中国城壁チョンピー 都市のほぼ完全なもの。城内もほ
ぼ            旧状を残す。城壁、街並みとも感激ものである。

 平遥は開放されて間もない都市であるため、外国人に対する施設はあまり整備されてい
ない。城内は、中心部には1688年(清代初期)に建てられた市楼があり、その周辺では定
期的に市が開かれていたという。街路は、その市楼の北側を東西門を見通す東大街・西大
街、北門から真っ直ぐに市楼に向かう北大街、市楼の東を南門に通ずる南大街の四つの大
街を軸に構成される。基本的に、道路と住居の関係、コミュニティーとしての街路の在り
方、院子の本来的形態と使用方法は未だ失われていないものと受け止められる。

敵楼

 平遥の城壁は少し歪んだ四辺形で、東壁1,070 m、
北壁2,000 m、西壁1,500 m、南壁2,300 m。高さ10
m程度、城壁の巾5m程度で、外壁は磚煉瓦積み、内
壁は干乾し煉瓦積み。敵を攻撃するために設けられた
馬面と呼ばれる突出部上に敵楼が連続する様は特徴的
である。


亀城上の銃眼

 干乾し煉瓦積みの内壁は窰洞を造るのに恰好の場所という。ここ平遥でも西亀城(門)
の内側に設けられた「保J古城環境風貌」の事務所と思われるものが窰洞的使い方をして
いるのを確認することができた。

 雨の少ない山西省・狭西省の建物にあって、壁から突き出した長い横樋から縦樋を用い
ずに直に地上に落とすのに対して、平遥城壁外側壁の排水処理については、城壁と一体化
された縦樋が設けられていた。


西城壁を南へ1]ほど歩いて城内住居を観察する。

 いずれの住戸も道路に対しては出入口以外の開口部
を持たず、高いレンガ塀で囲われる。中庭を挟んで北
側2階建、南側平屋と向かい合わせに住居を配するの
を基本とするが、情況に応じて左右のレンガ塀に物置
などを配する場合もある。

 屋根の形状は、反りのある片流れ、反りの無い片流
れ、反りのある切妻、陸屋根の四形状が認められる。
陸屋根の住居の中には屋根に草が生い茂り磚石式窰洞
を連想させるものもある。

 陸屋根の住居の屋上には、一般的には補修部材など
をストックしている事が多い。外壁を煉瓦積とする中
国の家屋も、内部の骨組みは木骨とするものが多く、
木の少ない中国では、部材のストックという考え方が
徹底している。

 城内の大街は少々埃っぽいが、路地は中々美しい。
中庭には棗のような樹木が必ず植えられてい、緑と日
陰の確保に務めている。

 城壁の上から見ると、時折日陰で昼食をとる姿、ニ
ーハオトイレを使用する女性の姿などに出会いハッと
するが、そうした時は城壁反対側に移動し、知らぬ顔
をするのが礼儀(当たり前?)であるという。


西大街の町並みと市楼

 平遥城内の西大街を歩くと、そこには観光地とは別
の、地元のゆったりとした生活リズムが感じられて嬉
しい。行き交う自転車、店の前に揺蕩う人影、のんび
りと買い物をする人々、既に吾々日本人が失いつつあ
る世界が此処では脈々と息づいている。

 大街左右の家並みは清代初期の様子をそのまま伝え
ているが、やはり傷みは隠しきれず、また、ヨーロッ
パ近代主義の波が押し寄せた痕跡もひしひしと感じさ
せられる。


市楼

 明・清の時代にはここで定期市が開かれ、非常に賑
わったという。


 平遥に関する文献が殆ど見当たらない中、西城門脇の管理所の人が『平遥』と題する一
冊の本の存在を教えてくれた。現在、残部が殆ど無いということで、定価の倍程度のこと
をいうので、定価にしろと値切ってみたが駄目であった。結局8元で購入。


清虚舘チンシュウクァン  乾隆35年の清代に建立。

 三清殿サンチンティエンの建築架構は、梁間方向の側柱は2
本一対の柱とされ、身舎の中間には柱を配さず桁方向
の強化はみられない。この架構方式は碧山寺方丈と同
一形式で、清代の一般的形式と考えてよさそう。

 隅部における架構方式。清代の架構方式の特徴的部
分で、直行する桁上に斜めに渡された横架材の中央部
分で隅木端を支持し、そこが第一の母屋通りとなる。

 これも隅木端部の架構方式であるが、特徴的な部分
は吊束の使用である。同じ建物の架構方式で何故二種
類の方式が用いられたかは定かでない。

 出組斗Lであるが、形式的には古式の踏襲のように
思われるが、中国古建築の斗Lの変遷について更に検
討が必要になろう。

        三清殿の後背部には僧坊として設けられた磚石式窰洞がある。

  城内の東南区にある文廟(1163年建立)については、気が付いたのが夕刻であっため
 に、止むなく訪問を断念。


8/24 6:30 山西大酒店のロビーでガイドM志勤氏と待ち合わせ。朝食の後、6:50空港へ
向かう。8:10西安に向けてフライト。











         中 国 や ぶ に ら み 建 築 紀 行

                〜建築風俗の旅〜

           大同−五臺山−太原−平遥−西安 編




西安 へ
中国目次 へ
総合目次 へ